赤穂の地とともに

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Location

赤穂義士を生み「塩の国」の名残りをとどめる町で半世紀以上に渡る金属加工の道を歩んできました。

江戸時代、浅野家による入浜式塩田(赤穂式塩田)経営で全国に名を馳せていた播州赤穂。「忠臣蔵」(※)の舞台の一つである赤穂城は、千種川が運んだ土砂が堆積してできた広大な河口地に播磨灘に臨む海岸平城として築城されていました。吹田鉄工は、その赤穂城跡の近傍、東西の入浜式塩田跡に挟まれた中州地区にあります。瀬戸内海と千種川という流通の要所で常に新しい情報に触れていた赤穂藩は、先陣を切って入浜式という新しい製塩法で塩田を営んだのです。大きな目標のために集結した赤穂義士たちと、新たな方法に挑んだ製塩職人たち。私たち吹田鉄工も、赤穂の挑戦の歴史に肖り、金属加工の可能性に挑んでいます。

※忠臣蔵とは

主君浅野内匠頭の仇を討つために大石内蔵助を中心とする赤穂義士たちが吉良上野介邸を襲撃した「元禄赤穂事件」を題材に、時代や場所、登場人物の名を変えて創作した、文楽・歌舞伎の作品『仮名手本忠臣蔵』のこと。

赤穂の人々は昔から力を合わせて大きなことをしてきたのです
吹田鉄工は赤穂を誇りに思っています!

赤穂義士の菩提寺

1花岳寺

花岳寺は、赤穂藩祖である浅野長直公によって正保2年に建立され、元禄の赤穂事件後は歴代藩主の菩提寺となっています。浅野家と義士に関する貴重な資料を展示する宝物館、千手観音尊像・四十七士の彫像を安置する義士木像堂、義士墓所があり、元禄の昔日を彷彿させる史跡地です。

大石内蔵助の屋敷跡に

2大石神社

『忠臣蔵』の英雄、大石内蔵助をはじめ四十七義士を祀る神社です。播州赤穂城内、大石内蔵助の屋敷跡にあります。境内には大石邸長屋門や庭園をはじめ、義士ゆかりの武具や書画などを展示する義士宝物殿があり、忠臣蔵にまつわる歴史に触れられます。

「忠臣蔵」の舞台の一つ

3赤穂城跡

赤穂藩の藩主が暮らし、『忠臣蔵』の舞台の一つともなった赤穂城(1648年〜)の城跡。本丸内には刃傷事件後に大石内蔵助らが大評定に集まった御殿の間取りが復元されています。城郭は国の史跡に、本丸庭園と二之丸庭園は名勝に指定された赤穂市のシンボルです。

「瀬戸内海と塩」がテーマ

4赤穂市立海洋科学館 塩の国

瀬戸内海の生い立ちや赤穂の自然、地質、地形、気候、動植物などを標本やパネル、映像によって紹介している海洋科学館です。塩田跡地の「塩の国」では、揚浜式、入浜式、流下式塩田が復元されており、かん水(濃い海水)を使った塩づくり体験ができます。

History

塩づくりの次はモノづくり。
製塩方法の変化とともに工場地帯へと変わる赤穂で創業。

1955年〜1965年代にかけては、かつての入浜式塩田を改良し、効率的な塩田が採用されましたが、1970年にはイオン交換膜法に転換したため、塩田は不要となりました。以降、製造業など工業は、塩田跡地の臨海工業地帯を中核として発展を遂げてきました。吹田鉄工は、その過渡期の1962年に金属加工業の株式会社を設立しました。

工業による赤穂の発展の一翼を担ってきました。
赤穂はもともと城下町の商人や、塩づくりの職人たちがいたところ。
経済や産業の土台になる労働力があり、近代化がうまくいったんだ。
戦後もエネルギッシュな人々が活躍したよ。
祖⽗・留治も戦後あたりからいろいろな仕事を始めた。
聞くところによると、ダンスホールをしていたとかいないとか。
子どもの数が多くなんとか食べさせなくてはと頑張ったのだろう。
吹田鉄工が鉄工業をはじめたのはいつからなんですか?
1950年頃だろうか、祖⽗・留治が鍛冶屋を始めた。
農機具等の修理や製作をしていたらしいが、
これが吹田鉄工の始まりだ。
世の中は戦後の復興期。少しして赤穂にも大きな工場が
建設されるようになったんだ。
吹田家も職⼈を雇い⼊れ、現場に⼈を⼊れるようになった。
さらに製造にも携わり、⾃宅横に工場を構え機械を⼊れたらしい。
その頃(1960年)、私が生まれたんだ。
そして1962年に吹田鉄工が株式会社に!
⽗・三喜が社⻑として持ち前の明るさで顧客を増やしていく。
三菱電機をはじめ、⽇本触媒やその他大きな企業とその関連会社と
取り引きを始める。たいしたものだ、⽗・三喜は。
金属加工業の技術を磨いて信頼に応えてきました。
1970年代は、大きな企業も誘致され、
塩田跡地が臨界工業地帯として発展してきたんだ。
1972年は三菱電機⾚穂製作所が創業以し、うちと取り引きを始めた。
翌年、現在の吹田鉄工の場所に工場事務所を建設した。
1981年には三菱電機の超⾼圧試験所の建設に携わり、
その功績で感謝状を賜ったんだ。
その頃社長は入社していたんですか?
私は1983年に⼊社して、工場で製造に携わった。
ベテラン職⼈に、時には怒鳴られながら鍛えられた。
その後営業にも⼒を⼊れ、⽇本触媒との取り引きで⽗・三喜に
追い付こうとした。この頃から、少しずつ信頼を得て仕事が増えた。
1985年頃、日本はバブル期。赤穂も景気がよかったね。
吹田鉄工にも面白いように仕事が⼊った。私も徹夜することも。
新しいプラント建設もあり業績が伸びていった。
良い製品を製作することを⽬指し、お客様に喜んでいただく⽇々だった。
このような状態が、バブルが崩壊するまで5〜6年続いた。
社長が経営を引き継いだのはいつからですか?
2000年に、⽗・三喜が亡くなって会社のすべてを引き継いだんだ。
その後、第二工場、第三工場を購⼊し、第二工場に洗浄場も建設した。
⾃分の信念のもとコツコツと、お客様、社員、会社のために
これからも金属加工の可能性に挑戦していきたい。